つまり:
- 「安全」のためにはいくらコストを掛けてもいいという神話。これを口実にニッポンの「社会コスト」は際限なく増加を続けてしまい、日本は国際競争に敗れてしまった。役人は自分の身の保全が一番大切なので、常に安全パイを選択する。そのコストを払うのは一般国民だが、お役人にとっては自分のお金じゃないので「安全至上主義」にチェックが効かない。
- 気象庁というお役所がこの種の情報を独占しているという弊害。この種の情報が独占されなければいけないという合理的な根拠はないように思う。先日、たまたま民間気象会社が台風の上陸地点について「お上(気象庁)」の見解とは違う判断を顧客に流したと言うことで気象庁から「厳重注意」を喰らった。これについては以前に書いたが(ここ)、なんで気象庁がニッポンのすべての四季を決定しなければならないのか? これこそ「権威主義」である。不思議でならない。ニッポンにおいては彼らの判断を第三者の立場から査定するすべがないのである。ハトポッポ君内閣は「危機情報の収集が大事である」と言っているが、だったら民間気象会社にも津波上陸予測を発表させるべきではないのか? しかし、「お上」一辺倒のニッポンでは、これは禁止されているのである。
- 三つ目は、安全はすべて「お上」が国民に対して保証するべきであるというニッポン国民の甘え根性。これこそ、テレビのアホ「水戸黄門シリーズ」が大人気を続けている所以でもある。手前の安全確保ぐらいは自分の判断でやったらどうなのかと思うが、こう言うときになるとニッポン国民はすべてお上に頼る。だから限りなくお役人の数が増えてしまい、それでメシを食う人間の数(つまり「狼少年」的な消防団コストと天災被害での「焼け太り」する受益者の数)も限りなく増加してしまったのである。
たかが津波の問題ではあったが、ここにこそ「現代ニッポンの問題」が象徴的に表れていると思う。日本株はやはり売りだな。
7 件のコメント:
こんにちは、Blogos経由で来ました。
この件に関しては全く反対の印象を持ちました。予め来る事が想定されていることに対しては統制が働くというのは強みになり得るのになあ…ということです。裏返せば、不測の事態には弱いということになると思いますし、こうした統制が経済などの活性化にはまったく活かされていないとも思いますが。
ただ、避難率はほとんどが10%以下だったという報道があり、画面にも海岸に様子を見に行く人たちが写っていました。自分だけは大丈夫ということなのだと思います。
個人主義と集団主義がまだらになっていて個人主義に移行したいと思っても中途半端に留まってしまうということと、集団主義も個人を守れるほど盤石ではなくなってきていることが問題なのだと思います。
ところで、日本がこれだけ大騒ぎしていたのに、鳩山さんのプレゼンスはまったくありませんでしたね。リーダーがいなくてもなんとなく動くっていうのは、何か異様じゃありませんか?
最悪を想定して避難をする。これ常識。結果論で どうのこうの。これ最低。 鳩山プレゼンスがないと動けない。これ不運。 日本の四季を気象庁が決めているとかいうの。これ異常。自身の体感に他の情報を得て決める。これ人間なり。
よく言ったと思います。
>最悪を想定して避難をする。これ常識。
これは常識なら、何もできないアホの常識でしかありません。
行政の発表だと「最大1.45メートル」だったらしいぞ。
あと、高波と津波を混同してないか?
橋本様
あまりに批判コメントが多いのでびっくり。
あなたの見解を大いに支持する人間もここにいることを知って頂きたく思います。
私も海外生活が長くなりましたが、ご指摘されるような「異常さ」は、一度日本を離れてみないとわからないかもしれませんね。
津波ではありませんが、日々の日常でこのような日本の「異常さ」を感じることがあります。
私の父は、よく私に言いました。「自分で責任の取れないことはするな」と。そして、批判記事の中でも多く見るのが「(万が一被害が拡大したら)どう責任をとるのか」と。しかし、責任を取るってどういう行為を具体的に意味するのでしょうか。
そこに、現代日本人の「お上に責任を取らせる」という感覚が蔓延している証拠を見出します。
先は非常に暗いですが、残念ながら私は愛国心が極めて強いため(太平洋戦争に行った祖父の影響でしょう)、何とかしなければ!と一人で勝手に思ってしまうのです(笑)。
久しぶりに「はてな」のブクマを騒然とさせたので、おいらは満足です。あれを見ているとニッポンの「民度」がよく分かる。やっぱりニッポンは売りだな。
こんなブログを読んだ。全く同感である:
山林、杜の人のブログ: 大津波で逃げて生き延びた人、亡くなった人の運命
昨夜のNHKの番組はそのように観念的な内容ではありません。具体的な人間の行動を調べて分かり易く編集しています。
結論を言えば、「地震が起き、津波警報が出た時、一散に逃げた人は生き延びた」という冷厳な事実になります。
しかし逃げないで津波に流され、幸運にも助かった人々の話を丁寧に聞いています。そして逃げなかった理由を明らかにしています。
逃げなかった理由に「津波は来ない!」と想った人が多いのです。三陸の危険な町に住んで居てもそう思ったのです。何故でしょうか?驚く事実を知りました。過去に何度も地震があり、その度に津波警報が出て、避難したそうです。100回も避難しても一回も津波が来なかったそうです。来ない津波の警報をお役所的な感覚で出し続けた気象庁が悪いのです。念の為に出した。しかし津波は来なかった。それではその警報を出した国家公務員の地震学者を処罰すべきなのです。そうしなければ地震や津波を予測する科学は発達しません。
津波警報でも逃げないで、不幸にも亡くなった方々は日本の官僚文化に身を任せた地震や津波に関する学者の犠牲になったとも言えます。
日本文化に巣くって居る、「念の為に、何々をして置く」という発想や考え方は大きな悲劇を招くのです。勿論、「念の為に、何々をして置く」という考えで助かる事も多いのです。しかし念の為何かをしたら、その結果を深く分析して悲劇が起きる場合は「念の為・・・」だ絶対にすべきではないのです。
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